オランダ / ドキュメントの先

昨夜、母が「弟(海外放浪中)がタケコプターでどっか飛んでいってしまった」夢を見たらしい。
嫌な予感がするとのこと。僕まで嫌な予感がしてきた。

昼過ぎからmotの「オランダのアート&デザイン新言語」展に俊太郎(友人)と共に行く予定が、だいぶ寝坊して待たせてしまう。
学校で、謝罪。
その際、なめさん(先輩)に久しぶりに会い、色々と建築談義。
どうやら僕は建築空間、形態操作に関して語彙不足気味である。
最近の関心はマクロに傾いてしまいがちな事に改めて気づく。

motの展示はマルタイン・エングルブレクトのエリアがなかなかよかった。
マーティン・バースに期待していたが、僕には悪いジョークにしか思えなかった。
あんなにでかい棚がまずどこに必要なのか。エキシビション/あるいは祭り、のためだけのプロダクトに果たして価値はあるのだろうか?
椅子の本棚はよかった。
写真撮影可なのに気づかず、写真はなし。
トランスフォーメーション展も行きたい。


美術館を後にし、飲みながら色々と話し込む。
思えば俊太郎とは大学1年時からなにかとつるんできた。
久しぶりに酒の席でやんややんやと話せる事ができたのは嬉しい。

話は二転三転、ころころと転がり、10+1の吉良森子さんの記事の話に。
http://tenplusone.inax.co.jp/monthly/2010/12/post-17.php

僕はここで論じられる危機感に賛同する。
メディアの社会迎合の姿勢はコンテンツのクオリティの著しい低下を招いている。
オランダのグラフィックデザインも槍玉に挙げられている。
その延長線上の話として建築のフォルムの氾濫が語られている。
「クリティックしない、ドキュメントする」という言葉が衝撃的。
広告を通り越しグラビアと化した建築と、日本的作家のパーソナリティの表出。
AARの超表層の回が思い起こされる。フォルマリスティックなビジュアルのみが、市民や建築に携わる人間、果ては社会の興味の範疇であること、それは資本主義サーフィンなどの問題とは別次元の思考停止ではないか。
恐ろしいのは、社会の建築に対する要求が、「果てしない形の実験と、そのコンセプトの妥当性のストーリー」、ただ「それだけ」を、生み出しはじめているという事実である。そしてドキュメント/グラビアの先にはなにが待っているのか?
クリティックを放棄した建築があってもよい。しかし、全ての建築がそれだけになってしまったのなら、なんとつまらない世界に成り果てるのだろう。総ての道は建築に通ずる、その道はかくもシンプルで、画一されたものであったのだろうか。




行きの電車で、デカルト方法序説を2章まで、帰りの電車でカフカ寓話集を60ページほど読む。
今更なデカルトは高校生の倫理を思い出しながら。カフカはかなり印象が変わった。
読書が楽しくなると、電車に揺られるのも悪くないと思えてくる。

明日は、彼女と友人の演奏するライブに行ってくる。
楽しみ。

少し作業をしたら寝よう。