「WHAT IS OMA」

WHAT IS OMA―レム・コールハースとOMAについての考察

WHAT IS OMA―レム・コールハースとOMAについての考察

レム・コールハースとはなにものであるのか?OMAとはいったいどんな組織であるのか?

本著は、世界を常に批判し続ける建築家コールハースを、コールハースが主催する(?)組織を、少しでも「知り」、「近づく」ために、あらゆる専門家が諸プロジェクトや彼らの言葉を分析、論述している。専門家の領域も多岐にわたり、プロフェッサーアーキテクトからコラムニスト、ジャーナリスト、そしてSF小説家までいる。また、構成としてO(Orbit-軌跡-)、M(Method-方法-)、A(Area-領域-)の三章に分割されており、OMAに対する多角的分析が行われている。このような書籍が発行されるのは、ひとえにOMAのプロジェクトや思想が魅力的であるし、しかしそれ以上にコールハースの批判的思考の全貌が見えてこない、シンプルでない、そんな存在に対する「畏怖」のような感情が、彼を知る者に共通してあるからではないだろうか。コールハースを毛嫌いする建築家も多い。この本の初版発行が2005年の5月でありコールハースCCTVの計画を推し進めている最中である。世界が注目する中国のコンペで勝利し、ひとつながりの輪のようなビッグネスを建設させ、そのスタイルと都市に対する批判性はコールハースとOMAという組織をそれ以前より高い次元へとジャンプアップさせた。現在、欧州全域を巻き込んだ環境プロジェクトである「Roadmap 2050」を発表し、またアジアでの活動を強化、更に以前から存在し「善良な」建築関係者から非難の対象となっていたPRADAとの蜜月関係をより強固なものにしており、以前にもまして多数の、大規模のプロジェクトを消化している。それらの案の影響力は依然強大であり、世界に無視の出来ないくさびを打ち込む。コールハースはそれら一連の行動を(コンペに勝利する、膨大なリサーチに基づく批判を発信する、ビッグネスとしてのモニュメントを生み出してゆく、資本主義を活用する等)あらかじめそうなることがわかっていたかのように、遂行する。ノスタルジアに縛られて身動きの取れない人間をあざ笑うかのように現状を読み解き、未来をつくりだす。肯定も否定もしない。それらを飲み込んでしまう。そこになにか得体のしれない「畏怖」のような感情が発生し、その得体の知れないものを少しでも理解したいと考えることは当然であると言えないだろうか。


Roadmap2050 Reinier de Graaf from OMA on Vimeo.





前置きが長くなってしまったが、以下より本著「WHAT IS OMA」の読後感を述べていこうと思う。

本書を精読するということは、僕の中でのレム・コールハースとOMAへの「畏怖」のベールを剥がしてゆく作業であったと思う。



第1部 ORBIT[軌跡]

1-1「レム・コールハースモダニズムの氷山の中のマンハッタンの炎」 アーロン・ベッキー

建築家、建築史化、建築批評家であるアーロン・ベッキー氏のOMAに対するエッセイ。
氏はコールハースが、後期モダニズムにおけるポジションとして、「神話のつくり手、操作人、データに憑かれたイメージを映し出す鏡」(A)としての建築家のポーズをとる立場であると述べる。
建築家像を氏は3パターンに分類する。
1.ハリウッド映画に登場する建築家のイメージ。設計したものは重要視されない。
2.建築家は資本主義の横柄な奴隷。生活の質を低下させる現象を生じさせるもの。
3.(これは建築界における建築家のイメージであるが)夢を追求する傍ら、現実的な諸々の要素に追いやられ思い悩む犠牲者。
コールハースと彼の同時代人の幾人かは新たなイメージを付け加えた。
*4.イメージの意識的なコレクター、操作人、投影社としての建築家の要素。(=A)
さらにベッキー氏は、コールハースの「性質」を彼の仕事の組み立て方に即して、氏の言葉で分析する。「コールハースの仕事は数多くの課題からなる。最初の課題は、20世紀後半の都市の神話を書く(あるいは描く)ことである。ふたつ目の課題は、主に視覚的用語を用いて、ポスト・アーバン、ポスト・ローカルな21世紀の都市における集塊のイメージ、あるいは、メトロポリスのイメージを組み立てることである。3つ目の課題は、建築家としての自らのイメージを、歴史的なタイプの建築家像及び新たに提案した別の未来的な建築家像の両方を意識的に併せ持つイメージとして、投影することである。」
コールハースが構築してきた彼自身の歴史的背景は、二つの一見矛盾する衝動にかられたものである。そのひとつは、きわめて暗示的な方法でアーバニズムを要約し、形作り、称揚することを成しうるヒーロー建築家としてのコールハースの物語である。もう一つの衝動は、彼が建築の基礎をフォルムではなく分析や予測においているために、とり憑かれたように統計的データ収集することである。コールハースは、そのキャリアの初期において、すでにこの二つの傾向を包含するイメージを見出していた。すなわち「マンハッタニズムという炎を内部に抱えるモダニズムの氷山」(B)である。」
すなわち、マンハッタン=ヒロイックに称揚されるアーバニズム/都市生活の神話/高揚される身体、であり、モダニズム=とり憑かれた様なデータ収集/データに依拠する洗練された王国/合理性と秩序、なのである。
このような自身のイメージを、「錯乱のニューヨーク」というデバイスを通して世界に埋め込んだコールハース。すなわち、モダニストの信念と骨格に、ポストモダニストの特定の意味をもつ外形を結合させたイメージである。
その後、データ分析及び予測は都市を合理的に指導するツールとなっていった。これによりそれまでの収集/分析のもっていた英雄的側面は一度死んだ。コールハースが「錯乱のニューヨーク」にて描いたグリッドのフォルム発生器のイメージは今やコーポラティズム国家(政府と経済界が協調して政策決定する体制)を表す記号に過ぎなくなった。
しかし、そのようなデータにグラフィックやイメージ、すなわちビジュアルがふたたび英雄的性質を取り戻す。
つまり、「図表とサンセリフを用いたテクストが伝える客観的かつ精密なデータ収集とその分析にいての情報」(=B)である。
コールハースはこの方法論にて、建築自体が3次元のグラフィックになるような建築をつくりだしたのであった…
1996年におけるAMOの設立は情報化時代において、リサーチプロジェクトを強化することを目的とした。
その頃のコールハースは「モダンな建築家が、何らかの建築的実践に専念することなしに、いかにして神秘的でいられるか、という考えの縁に立って揺れ動いていた」すなわち、コールハースは分析によって得られた知識あるいはデータをグラフィックというヴァーチャルで不安定なフォルムに反映する人物となっていたのである。
転機はおとずれた。
PRADAとのプロジェクトにおいて、OMAは「ライフスタイル」を建築化した。
「「ライフスタイル」という用語は、「ブランディング」という用語と共に、あらゆる空間や商品、イメージが、永久性や継続性、本来的価値を欠いていることを表す言葉であろう。そうした欠如は、世界中で絶えずデータが縦横無尽に行き来する情報化時代によってもたらされたのである。」「したがってマンハッタンの炎は、モダニストのファッションモデルの氷山の内部で燃え尽きたか、あるいは都会の遊牧民たる全ての人々の代理を務めたコールハース自身の内部で、燃え尽きたのである。ライフスタイルというブランディング作業が神話をつくり出したわけではないが、代わりにその作業自体が神話的な活動となったのである。」
ここで、「神話的なもの」というもののイメージとして永久性をもった精神であること、現実世界のストーリーからはみ出していること、そのストーリーが現実を変容させる力をもっていることなどが言えるであろう。
最後に、氏は現在における建築に対して問われるのは、神話的となること、また、物質的な所有物や空間に価値が存在しない時代においてはインテリジェントシステムを通じて価値を付加し、除去すること、さらにはその価値をイメージとフォルムを通じてリアルなものにする能力を有することであると結論する。

この時代において、神話的な力をもったアーキテクチャを実践するにあたって、マンハッタニズム/モダニズムの対比が一体なににあたるのかを考えた際、それは前時代より顕著にヴァーチャルとリアルを横断する視野が必要であること、よりイメージをグラフィカルに都市に落とし込む操作が重要であることなどが想像できるだろう。




1-2 「ハンディキャップというアイデンティティ」H.J.Aホフラント

コラムニストであるホフラント氏が、コールハースの著書「錯乱のニューヨーク」を語り始めることからエッセイはスタートする。
氏は作品がマニフェストであるものを定義づけた。マニフェストは普遍的なものに対して反抗する魔力をもっている。そして、氏は、「著述家兼建築化の人物が、この本において自分自身と都市とを同一視することを成し遂げる」というマニフェストを持った著書であると結論付ける。
エッセイは「S,M,L,XL」、「ジェネリックシティ」における「計画」に対する論述を通して、氏は革命の不条理を説く。
「…この世界におけるいかなる計画法も、秩序と呼ばれうるものを生み出し得ないことである。我々は皆このことが危険であることに気づいていると同時に、これが自分たちの笑いを誘うものでもあることも知っている。」ホフラント氏はユートピア主義者なのだ。
そして、ユートピアイデオロギーがはぎ取られた時代に突入した。それどころか、氏は現代の欠点はユートピアをどのように欲すればいいのかを忘れてしまったと述べる。その契機が9.11であることに間違いはない。



1-3 「やろうと思えば何でもできる」イアン・ブルマ

イアン・ブルマ氏はバベルの塔の話を皮切りに、建築における両義性、すなわち、地上の楽園であるユートピアが気付いた時には地獄のようになっているような、を分析する。「やろうと思えば何でもできる」と思いもしたならば、あらゆる言語が表れ、互いの理解の喪失が生じる。ユートピアを夢見た後の建築化に対する眼差しの変化がそれを語る。
そして、その事実は建築の限界を語る。「建築とは危険な職業です。というのも、それは不能と全農の有毒な混合だからです。どういう意味でそうであるかというと、建築化はほとんど例外なく、誇大妄想的な夢を心に抱いており、その夢を押し付け、実現させることを、他の人間や状況に全て依存しているからです」これは、コールハースの言葉であるのだが、彼はその「限界」の中でバビロニア的なもの、もしくはそれ以上のもの、すなわち、ビッグネスあるいはXLに取り憑かれ、建て続ける。
コールハースはオランダ人であり、その性質を「S,M,L,XL」の一項にも記している。
DUTCHNESS(オランダ的なもの)…愛国主義の賛美者であった第一世代にとって、オランダ的なものは、しばしば変容と同義であった。それは神の導きによって、大災害を幸運に、弱さを強さに、水を乾いた土に、泥を金に変容させることであった。」
この性質は非常にコールハースにも当てはまる。しかし、現在堤防は完全に閉じられ、オランダ人は変容を欲することを忘れたかもしれない。
そうなると、コールハースはオランダにいれなくなる。旅立ち。そして、「変容を望む」オランダ人の手によって、ニューヨークを「創始した」…

ここで、ブルマ氏の言うニューヨークにおける「モダニズム」の定義の変遷をまとめておきたい。

戦前:レイモンド・フッドに代表される建築家たちが効率の名のもとに「快感原則」と「ビジネス」に重きを置いた一方、ル・コルビュジエのようなヨーロッパ人たちは「より近代的に」、ニューヨークを「快感原則」を超えた「純粋合理性」へと導いていった。都市は錯乱していた…
戦後:効率と錯乱の結合は消滅し、ヨーロッパ合理主義の支配下におかれる。安っぽいカーテンウォールが摩天楼に出現した。そこに崇高さ(アーロン・ベッキーのいう神話的な力と同義)はない。

そして、コールハースはまた旅をする。東へと。
はじめに日本における記述がある。コールハースは日本に魅了された。「今の日本はキッチュなものと美しいもの、粗雑なものと精巧に仕上げられたもの、洗練と陳腐、安っぽさとぜいたくさとを混在させるというコールハースの超現実主義的な原則に則っているといえる。それはショッキングなことである。」
コールハースがなぜ日本に魅了されるのか、もうお分かりであろう。つまり文脈が無意味化しているのである。京都や奈良の近辺を除けば、古い文化の保存という意味での伝統の真正性、すなわちヨーロッパ人が自らの古都において最も重んじている考えは、日本はもちろんのこと、東アジアのどこにも存在しないのだ。日本は自らの都市環境の再建を余儀なくされた。というのも1945年の後、日本には古いものは何も残らなかったからである。」
東アジアで現在機能しているのは、戦前の「マンハッタニズム」を形作ったものと同様であると氏は述べる。
そして、彼らにとって、モダンなものとは権力や富と同義であるのである。これは考えずとも東京を見れば納得のいくところである。
コールハースシンガポールに未来のジェネリックシティ、ユートピアを夢見る。その未来都市は文脈から完全に脱した、効率性のみを基盤とした都市である。富裕層と貧困層が二分するアジアにおいて、「ジェネリックシティ」の上でコールハースは「街路」は死滅すると語ったのである。

「彼が刺激を受けるのは、都市の荒廃地であり、見捨てられた工業地帯であり、爆撃されたタブラ・ラサであり、遺棄された郊外のブロックである。だからこそ彼はアムステルダムよりもロッテルダムを、パリよりもロンドンやベルリンを好むのだ。爆撃された場所は新しい都市へと生まれ変わる。見捨てられた地は美しく作り直せる。」この文章は非常に納得のいくところであって、ネガティブなイベントが場所性をはく奪した際、夢を見る、すなわちユートピアが生まれる可能性を見いだせるのではないだろうか。上記において夢を見ることを忘れてしまったとあったが、そうではないと僕は思う。建築における素晴らしい点として、建築は夢を見せて、共有させることができることにあると思うのだ。




第2部 METHOD[方法]

2-1「CUFLAGE:カモフラージュされたAMO」ニール・リーチ

実は、このエッセイが僕が本書の中で最も興味をもった文であった。建築家であり、理論家でもあるニール・リーチ氏がコールハース、AMOが用いるビジュアルの手法解析を、独自の理論で行っている。

ビジュアル的手法というものは、社会の複雑な構造をグラフィック的に明快に表現する方途を与える一方で、視覚的な領域の中に完全に閉じ込め、美化という罪を着せることになる、すなわち人々を無感覚にする領域に導く。
コールハースのプロジェクトの例を挙げると、ラゴスという「地上に存在する地獄」を視覚的に魅力ある地として明快にプレゼンし、そのことを忘れさせてしまう。そして、彼らのビジュアルに強く訴える手法は、それが故に問題を「美化」し、問題を「無感覚」なものにしたとして多くの批判を受けるのである。
「表象―それは美的なものの領域でもある」
コールハースは審美について語らない。表象的なもの、ビジュアライズされた伝達手段やデザインについて、なにも言わないのである。リーチ氏は、本論において不在となっている、コールハースの作品における美学理論を提示した。
氏は、人は「イメージ」自体を、権限を持つ領域として認識する必要があると言う。そして「イメージ」というものはなにかを隠蔽するものではなく、自己表現の一つのモードあるというとらえ方をされるべきであり、カムフラージュの概念は、アイデンティティの形成における表象の役割を重視する精神分析学の視点と緊密に連携すると語る。
ここで、「イメージ」、「表層」に対する、ジャン・ボードリヤールやギ・ドゥボールといったポストモダン批評化(と呼ばれる)の主張と、それに対するニール・リーチ氏の主張をまとめてみようと思う。

ポストモダン批評化:現代の文化においては、現実が表層的なイメージによる作用の下にいわば消失させられた。
ギ・ドゥボール:スペクタクル社会においてアイデンティティが失われたのは、イメージと商品があらゆるものの媒介者となったからである。
リーチ氏:ブランディング文化においてはその領域の至る所においてアイデンティティ自体がねつ造された。
ジャン・ボードリヤール:現実は我々のハイパーリアリティの文化における「コミュニケーションのエクスタシー」によって曖昧なものと化したために、効果的に「盗まれた」
リーチ氏:我々が現実であると考えているものは、実際は想像的なもの(imaginary)である。現実と呼ばれているものが作用している場は、まさに表象の想像的な領域に他ならない。

さらに、リーチ氏はつづける。
シミュラークル、シミュレーション、表象性。表層的なものが効果的に作用するこの文化(ハイパーリアリティ)がある種の肯定的な態度を有していることは明白。
ギ・ドゥボールやジャン・ボードリヤールの批評は美学上の袋小路を導くものであり、視覚的領域で活動する建築家やそのほかの人々がもつ権限を根本的にはぎとり、彼らが効果的に操作することを不可能にしてしまう。そして、現代文化において視覚的な領域はきわめて重要な役割を演じている。失われた深遠な文化を渇望するよりも(過去を憂うよりも)、現在の文化を受け入れなければならない。それは、浅薄な領域である一方、自らの持つ魅力によってその浅薄さを埋め合わせする文化であるのだ。
すなわち、「ボードリヤールなど忘れてしまえ」なのだ。

・「カムフラージュの理論」
1.0「カムフラージュ」という用語が軍事用のカムフラージュといった慣習的な意味で、つまり狭義の意味で用いられているのではなく、文化において常に作用している表象や自己表象といった広範な意味で用いられている。カムフラージュは服装になり得るし、服装自体がカムフラージュになり得る。
Ex)戦闘用カムフラージュ服:軍隊の行進において兵隊を目立たせる⇔軍事的戦闘において彼らを周囲の中に隠す。
1.1カムフラージュは仮装の形式であり、表層のモードである。カムフラージュは、自己を覆い隠すことよりも、表象の媒体を通じて自己を環境に連関させることを意味する。
1.2カムフラージュの役割は偽装するおとっではなく、他者との連関を可能にする媒体を提供することなのである。カムフラージュは、象徴化(symbolisation)のモードを構成する。
1.3カムフラージュの二つの重要な特性→視覚的な世界を強調していること、本質的に戦略的であること
2.0カムフラージュは視覚的な領域に限定されない→臭覚と聴覚
Ex)香水、音楽
しかし、視覚は最も有効な感覚であり続けている。
2.1カムフラージュは世界とのインターフェースであると解釈可能。
カムフラージュは自己を再提示する(re-present the self)仮装として作用する。
カムフラージュは、表象の媒体を通じて人間のアイデンティティを構成するメカニズムとしてみなされるべきである。
3.0カムフラージュは露出と隠蔽の両方に言及するものである。
カムフラージュは、個人が表象の媒体を通じて、自らと所定の背景とを関係づける装置として作用する。それは、背景の一部になることであったり、自らをそこから目立たせることであったりする。
3.1今日のわれわれに必要なものは、社会に再び個人を書き込むのに適した美的表現の形式である。
美的な領域の二面性→あらゆるものがイメージと商品に吸収される文化において、我々が抱える様々な問題の源泉ともなり、同時におそらくその問題の解決策ともなる。
3.2カムフラージュは、伝統的な帰属意識の構造―すなわち家族や教会など―が崩壊し始めている社会において、社会への帰属意識をもたらし得る→カムフラージュは、自己の位置づけを行うメカニズムとして作用し場所との結合および付着の感覚を助長する。
4.0流行は、どの美的表現が特定の文脈に適したものであるかを決定する→アートは流行から逃れられない、流行のロジックの範疇に内接されているものである。
4.1生産的表現モードと非生産的表現モードとの違いはデザインの問題→美的な産物は、自己と環境との媒介者として機能する能力を備えている必要があるが、それができる美的産物は、そのデザインが巧みに制御されているものだけである。
デザインはカムフラージュの効果的な作用にとって、最も考察されるべきものとなる。

以上が、「カムフラージュの理論」の概要であるが、僕は大いに勇気づけられた。
というのも、十分な思考、リサーチとイメージによって社会に有効な影響を与え得る/社会を変革し得る、という理論をコールハースをサカナにして体系だてて文章におこしてくれたからである。
僕の長期的な目標として視覚的な情報によって、すなわちビジュアルによって(それは建築であり、グラフィックであり、その他あらゆる手法をまたぐ)、社会に影響を与え得る人物でありたいと思っている。
最後に、氏はコールハースの議論に対してもカムフラージュの理論が寄与するものとして提示する。
「カムフラージュの理論は、デザイン自体が個々の主体と環境とを関係づけるメカニズムをもたらすことで、そのような状況を克服できることを示唆するように思える。この点でデザインはジャンクと対立する。もしジャンクな都市が、場所が特定できないジェネリックな都市となったのであれば、精巧にデザインされた都市は、空間的地図作成という新しい形式の都市となり得る。」



2-2「モダニティの終焉:レム・コールハースによるエントロピーの言説」オクウィ・エンヴェゾー

エントロピーとは原子や分子の領域における「でたらめさの尺度」、すなわち「不確定性、乱雑さ、無秩序の度合い」といった意味合いである。そして、このエッセイにおけるエントロピーという言語の使用方法は、恐らくこれで事足りる。

エンヴェゾー氏は都市というテーマを、モダニティ(現代性)を中心に据えたレム・コールハースという男を中心に考える。そして、やはりはじまりは「錯乱のニューヨーク」となるのだ。少し考えればわかるように、都市、モダニティ、レム・コールハースときたら「錯乱のニューヨーク」は必ず始まりとならなければならない。それがコールハースの20世紀おける「最も偉大な」都市分析であり、コールハースの社会に対する最初の大々的なマニフェストであり、時系列上において1978年がいかに過去になろうとも、必ず立ち返らなければならないエポックであるからだ。
したがって、エンヴェゾー氏も本エッセイの中で都市とモダニティと錯乱のニューヨークを事細かに分析しているが、僕はいささか疲れてしまった。よって、気になったひとつの 文章のみ抜粋する。
「「理論上のマンハッタン、理論的推論の産物としてのマンハッタンを描き出す。現存の都市はこのマンハッタンなるものの妥協的にして不完全な実現である。」言いかえれば、この都市は建てられるために存在し続ける「未来のマンハッタン」である。」

9.11の事件からユートピアの終焉への流れ(解放という理想を呼び起こすものでなくなった)も上記と同様である。
また、コールハースが巧みな論理転換によって、過密の賞賛からジャンクスペースへの嘆きへとシフトし都市をタブラ・ラサとして扱うようになったこともほぼ上記と同様である。
異なるのは、本エッセイにおいてエンヴェゾー氏はコールハースを疑似的な民族誌学者とみなしている。そして、それは後半の論で明らかになってゆくのである。
氏は、近年のAMOの都市プロジェクト、すなわち「珠江デルタのリサーチ」「ショッピング」そして「ラゴス」、におけるパラダイムシフトが、コールハースが非西洋のモダニティに入り込むための戦略であり、それらが荒廃した都市の表層の下にあるものをかきとり、西洋的アーバニズムの問題点をあぶり出す活動であると分析し、それらの視点は民族誌学者的であると述べるのである。しかし、その活動の「ラゴス」の調査における、問題点の明らかな誇張やすり替え、単純化、間に合わせの文化の賛美などに疑問を呈する。思うに、コールハースに反論をぶつけるうえで重要なのはコールハースをこちら側に引き寄せることである。そのレイヤーが氏の場合「民族誌学者」であったのではないだろうか(コールハースは本来建築化であって、民族誌学者として観察すると明らかな欠陥が浮かび上がるだろう)。さらに、アジアやアフリカの都市を語る。コロニアリズム(植民地主義)とポスト・コロニアリズム→伝統とモダニティの対立。ネオ・コロニアリズムの可能性。アジアにおける非―建築としてのジャンクスペースの概念の修正、すなわちジャンクスペースの建築化。
氏は、ラゴスとアジアがコールハースによる完全な制服に対し抵抗するやり方によって(民族誌学と人類学の調査の対象となった都市からの挑戦)コールハース自身の言語を返還させる完全で適切なコードの不在を述べる。
コールハースの評価は大雑把に二分される。それは、側面の捉え方の問題である。
そんな中、コールハースは従来の建築家概念を打ち破り、俳優やコメンテーターとしての建築家を発明しその役割を今なお果たしている。そして、それらはあらゆるものを (例えば資本主義)、戦略的に自身とマリアージュさせることなのである。


2-3「Kの物語」マシュー・スタドラー

マシュー・スタドラー氏はコールハースをフランツ・カフカの小説「審判」に登場するKにみたてた。僕は、「審判」を未読である。どうやら、そのKというのは「自らつくり出したプロットと空虚な現実にあらがう肉感的な」存在であるらしい。
よって、このエッセイの中に現れるコールハースという人称はすべて「K」と表される。

「建築家としてのKは、理論に憑かれているというよりもプロットに憑かれている」
非常に興味深い一文である。すなわち、Kが発する言葉や、綴る文章や、建築における選択はすべて物語を内包し、選択に意味を吹き込んでいるのである。すなわち、Kの行動は劇の様相を呈する。それは、「建築とは、権力と無力とが同時に存在する逆説的なドラマなのだ」という言葉や、上記オクウィ・エンヴェゾーのエッセイにて述べた、「俳優やコメンテーターとしての役割」とリンクするだろう。観客は大衆や他の建築家やクライアントである。

・ヴァーチャル、ビッグネス、現実
Kは「現実」消失に否定的である、「1968年の五月革命の世代」を非難する。そしてK自身もその世代である。
Kによるとその世代が、建築の事実上の消滅を先取りした、すなわち仮想現実の世界において、かつての全能の建築を再生した。それは、仮想世界におけるユートピアの創造/想像であり、「我々が永遠に現実から追放されることを勝ち得た」ということと同義であると。
Kは建築家はこの取引を拒否すべきであり、その代わりに物質の世界とヴァーチャルな世界の両方において「ビッグなもの」を理論化し、それを建設することで「ビッグネスに関わる問題」と対峙すべきである、と提案する。逆説的にビッグネスというものが、概念的には、ヴァーチャルと現実で実践可能であり、理論的な橋渡しが可能なインタラクティブな機能を潜在的にもっていると言えないだろうか。
現実の消失可能性はKの物語においても、上記でKが1968年の五月革命の世代を非難しているように、立ち現れる。それは、Kがビッグネスについて緻密に描写する一方で、現実については、影のように描写するばかりであるからである。Kにおける「現実」は「エデンの園に似たもの」、「ビッグネスを介して回帰する不特定の失われた楽園」、そして「無数の文脈や使用に耐える伝染力と柔軟性を持つ魅惑的な一種のウィルス性のミーム(遺伝子のように再生産され受け継がれていく社会習慣や文化)」であり、それらは建築理論や哲学理論から解き放たれている。
そして、スタドラー氏はその抽出された「Kの現実」が詩人のジャック・スパイサーの活動に同様の意味をもつとする。

・ジャック・スパイサーとKの現実
スパイサーは「現実は、我々が詩を通じて制定する構成力である」と述べる。それは詩人の意思と趣味が、現実の命令に対し、屈服させられることを意味した。スパイサーは、我々が現実と接触するために身体の中に向かって「昇っていく」という逆説めいた主張を行う。
「人は語ろうとしない / 現実に向かって人は何を昇っていくのか、/ 嘘 / 他の人間の口の中にある男根 / 無によって定められる現実を携えながら。」
このスパイサーの詩が語るのは、口という無の空間が現実を測っていること、現実を包含するものであるということ。そして肉感的な性質が詩に張り付いている。観念作用を肉体に還元している。そして、それはKが達成したことでもある。
Kが書き、建てることによって、理論/システムは死に絶え、精神が自らの身体に戻っていくのだ。Kにおける「現実」とは、「身体が理性による統制をもたずに力に向かって昇っていく」、そんな状況を指す。
それを代表する文章が次のようなものである。
「アーバニストたちが古代都市の価値を、それらが決定的に不能となった段階で遅ればせながら再発見したことは、もはや引き返すこともままならない状態、断絶され不適格となった致命的な瞬間を意味したであろう。今や彼らは、まぼろしの苦痛についての専門家である。つまり、すでに切断された手足の複雑な症状について話し合っている医者たちに他ならないのだ。」
Kが価値を見出すのは理論ではなく、
理論の外側で身体が活動する世界=建築的文脈によって捉えられることのない連続する関係性としての都市
なのである。
Kが建築理論から都市を解放するための方法として記しているものには以下のようなものがある。
「現代社会における様々な思索のシステムを、それらの真偽の如何にかかわらず、現実性を獲得する手段として具体化させること」、「官僚的で道具主義化された世界がもつ脆弱さに注意すること」、「無価値なものを、崇高であるとさえ思わせるものに変容させる概念を見出すこと」、「かつては考慮に値しないとされたものを活用すること」、「不可避のものが崇高さを有しているかどうかについて調査すること」、「不確定なものと建築に特有のものとを結合させること」、「歓喜と恐怖を同時に味わうこと」。

スパイサーにとっての都市は「単なる信用のシステムではなく、彼らの信用と彼らの心の共存」であり、これはKの「都市を皮膜としてではなく単なる共存として、すなわち連続する関係性として理解すること」につながる。
スパイサーの省察「しかし我々がお互いにバーで話したり、騒いだり、激怒したりしながら作る都市は、完全にごちゃ混ぜの鏡に映し出された様な都市のイメージである。追放からの帰還である。」
そして、この「都市のイメージ」こそが現実に他ならない。

Kは彼の言説の持つ性質において、ヒーローとなってしまった。Kの言葉とKの身体が融合させられ、激怒する群衆と彼らが欲する物語をつなぐ導管/障害物の役割として曝け出され、その身体の中にKは閉じ込められてしまっている。
Kはビッグネスを転機と願った。ビッグネスは恒久的なシステムを持たず、権威あるいは制御の可能性をもたない世界である。「ビッグネスは非個人的なものである。したがってもはや建築家がスターダムにのし上がっていると非難されることはない。」とエッセイの最後に綴っている。しかし、彼は彼が嫌悪する権威を身に付けた上でそれを構想した。Kの言葉に意味と力が与えられる限り、すなわち今までと同様であれば、今後もKは神の使いとしての自ら身体の中に捉えられたままであるだろう、とエッセイを締める。

ビッグネスはヴァーチャルと現実を包含したインタラクティブな概念であり、コールハースが劇の主人公としての殻をやぶり、「現実」に帰還するための装置であった。しかし、劇の途中にステージ上でそのための言葉を発しても、その言葉は神話的な意味をもつばかりなのである。



第3部 AREA[領域]

3-1「レム・コールハースの生き残りの倫理:OMAの最初の住宅」 バルト・フェルスハフェル

レム・コールハースが1986年にマースカント賞を受賞した際、彼はスターダムが戦略の一つであると予言した。建築の唯一生き残る道は「再び先見者として振る舞うこと、すなわち想像力をもって公然と、無思慮に自己満足的に振る舞うこと」であるとしたのだ。そして、その想像力の栄養源となるのが「建築における忘れ去られたポテンシャリティ」、すなわちマッスや巨大なスケール、悪趣味、形のないもの―なのである。のちのビッグネスはマッスと巨大なスケールを合成したコンセプトであり、内部は外部と切り離され環境化する。途方もなく大きい、過度なものを前に個々の人間は打ち消され/自身との関連を断ち切られ、それに組み込まれる。また、社会的なものは「形のないもの」であり、社会的な構造と場を再生産するメカニズムとして「趣味」が定義されるのであれば、マッスは自動的に「悪趣味」になるであろう。それらは、存在論であり、表層的である。そして、コールハースはネオアーバニズムやアジアの新興巨大都市の爆発的な成長、日本における「建築と都市計画の中心」、「消費のためのオブジェ」となっているカオスなど、特定の歴史的発展の中にこそ真実―すなわち歴史の突破口となる存在論をみる。
コールハースの人々が住む物質的な存在の状況は「ヴォイド」+「マッス」であり、これは古代の原子論に似る。OMAの「公的」な建築は政治的でもなければ共同体風のモニュメント的でもない。完全主義の態度や、ディティールの永続性を求めるほど哀れなものはないとフェルスハフェル氏は言う。公共建築は限られた寿命の建物であり、経験の強化あるいは増強のみを目的としたものである。それは「マッス」の密度や加速を統制する流動的な制御装置であり、「マッス」の経験を解放する「ヴォイド」との対比なのだ―そして、それは非常に明確に「表層的」である。
「そして彼はうなずくのだ―建物の内と外で起こるあらゆる事象が生み出した副産物である、無意味な美しさのきらめきに向かって。それは、光と色の戯れに他ならない…」

そういった前提があるうえで、OMAが設計した住宅やヴィラは重要なものであるとフェルスハフェル氏は述べる。
コールハースにとって住宅とは「密かに住む」場所である。周囲の環境あるいは都市との関係の断絶―「中心」(生活のあらゆる面を象徴的にからみ合わせるもの)を取り囲むように建つことで周辺環境との関係を断ち切る。内部に向かおうとする住宅である。
そして、OMAの家は密やかな会話であり、隠棲の場所である―すなわち「大きな塊のような存在」から遠く隔たったものである。
コールハースの理論と分析は、彼が実践していることを包含するものではない。OMAによって建てられた住宅が示すのは、生活することは何であるか、それはどうあるべきかについての視点である。
一方「ビッグネス」とは大きな塊のようなものを、建築とアーバニズムの基本要件とし、かつデザインのための必須の出発点とするコンセプトである。
そして、コールハースの分析は、生活に関する「対話」を必要としない。



3-2「AMOの使用手引き」 ブルース・スターリング

OMAを鏡写しにしたAMOの存在意義とはなんであろうか。
その実質的な理由として「建物」と「情報」という二つの活動領域が判別しがたくなったことがひとつ(AMOはヴァーチャル専門の事務所である)。
もうひとつの理由として、知的習性という利器の存在である。コールハースは学生のころ(1960年代)から建築とメディアの混合を行っていた。そして、いまや現実とヴァーチャルを行き来する存在である。AMOはヴァーチャルなものや情報に関心を寄せる集団とはいえ実在する物理的な構造物の文脈に位置づけられるのだ。
こうして、コールハースはOMA/AMOという二分法によって、ひとつのプロセスに対し二つのアイコンがクリックできる状態が生じさせることに成功した。

コールハースは情報の納屋として図書館の建築に特別な関心を寄せる。また、CCTVやドイツのメディアキャンパスなどはノードであり、情報フィルターであり、ヴァーチャルな工場である。こういった、目に見えて情報というヴァーチャルと建物というリアルを引き合わせたプロジェクト以外にも、現代社会は携帯電話や警備システムなど、都市におけるあらゆるものが高度に情報化された、デジタル化されたメトロポリスとなっている。それらの無計画な設計は目に余る。そして、そういった設計に有効であるのが上記で述べたエキスパートチームの二分なのである。ユーラリールのプロジェクトが好例として挙げられよう。スターリング氏はこれらのスタンスを混合主義のアプローチと呼ぶ。

氏はAMOの真の出所は1971年であると予測する。すなわち、コールハースとベルリンの壁との遭遇である。
その巨大で破壊的であり、美しくもある塊のような建設物において、もっとも人目を引く部分はどこであろうか。それは落書きである。
「これはまさしくメディアであり、最も原始的で無法状態のコミュニケーションであり、誰一人として恩恵を授からない巨大で残忍な構築物に物理的に吹きつけられた、一種の地下出版物である。」

コールハースは突如の動乱に揺れ動き、錯乱し、まったく異なる体制へと変容させられた都市であればどこであろうとそこに立っているという。世界最下点の空間構成をもつラゴス。彼はそこが場所ではなく、プロセスであると分析した。すなわち、形がなく、流動的で、根本的に変化し続ける都市であり、そこに都市を理解する鍵がある。
それに対する合理的思考をもった人々の反発として、フォルムの付与の不朽の正当性がある。
それに対し、AMOは「ミューテーションズ」という書物においてこうした価値観の幻想を払拭した。「ミューテーションズ」において、ローマの都市のダイナミクスが「ローマン・オペレーティングシステム」、つまりローマは帝政時代OSを有し、流動的で、変化し続ける帝国であったとつくりかえられている。ここで述べるべきは、壮大な寺院に不朽のフォルムを付与したところで、OSが機能しなければ、それはゆるやかに崩れゆく大理石の箱でしかないということであり、ゆえに、何代にもわたって生き残るような建物をデザインし、その内側に無理やりオペレーション機能を詰め込むべきではないのある。それを現代の文脈におきかえて、建物を建ててやればいいのだ。
そして、それはリールの背景に急きょ現れたコンテクストとそれに付随するOSであり、それはプロジェクトにビッグネス→建築の不在(内部空間の環境化)を導いた。また、欧州連合におけるOSの見直しとバーコードフラッグのデザインも同様であろう。

今日、建築的なものとバーチャルなものは日常における極地に達した。両者を区分する意味はもはやない。そして、OMA/AMOを二分して捉える意味もないのである。

EU BARCODE












おわりに

レム・コールハースという人間は常にふたつ以上の面を持ち合わせているのではないかと思う。
それは演劇の主人公としてのコールハースであると同時に、その殻をやぶりフラットでありたいと願うコールハースであり、そんなこと意に介さない(ノスタルジアとは無縁な)コールハースである。
コールハースの言葉も建築も普遍にはなりえない。あくまで特殊解であり、しかし、普遍なものとはなにか、と疑問を投げかける引き金になる。
「ビッグネス」において個人がそれを目の前にすると自らとの関わりを断つ、無意識になる、と記述されると、その記述に対し意識的にならざるを得ない。

本著における様々なエッセイが、現在の僕の関心ごとを補完してくれたと思う。
この本を通して、レム・コールハースのことを、読む以前よりも知ることができた。
いや、より意識するようになったと言った方が正しいだろうか。


最後に、非常にまとまりのない大長文になってしまった。
ブログとして綴るにはあるまじき長さであると思う。
それでも、この稚拙な文章を最後まで読んでくださった方には感謝したい。