Feeling things / ネイチャー・センス / これも自分と認めざるをえない展

本日木枯らし一号が吹きました。寒い。
駅からの帰り道に目に入るコンビニ全部に入っちゃうくらい寒いです。

芸術の秋ということで、いくつか展示会へ行ってきました。
[1]はたくまと。[2][3]はけんすけと。


[1]"Feeling things" Olafur Eliasson



銀座、ギャラリー小柳にて行われている展示会(明後日まで)

オラファーの作品は大好きで、瀬戸内海でも楽しんだのですが個展は初めてでした。

"slow-motion shadow"
"slow motion shadow in color"
のふたつの光を用いたインスタレーションは、重ね合わせのずれによって生まれるグラデーションと、光の波長による色の拡散という印刷の原理を思わせるような空間。とびきりシンプルな空間であるため行動により様々な実験が可能だった。同行したたくまが「オラファーの作品は子供が一番楽しめる」と言っていたが、なるほどと思う。子供は好奇心の赴くまま「実験」をする科学者であるから。

"Innen Stadt Au〓en"
新作。鏡を用いた都市のフィルム。フィルムの枠と鏡像の枠がそれぞれ都市を切り取り、コラージュされる。歪んだ鏡は(鏡もカットによって変更しているかも知れないが)、とりつけられた車が走ることで、歪んだ都市の鏡像をヴィデオの枠に映る都市に介入させる。
じっと見ていると、その現象に慣れがでてきて、妙な違和感だけが残る。空間にすることで、近づき自身の影をさらにコラージュすることもできる。そこまで近づいた時に、ディテールが見えすぎて3D酔いのような症状が出てきたけれど。

"compass roc"シリーズという8方向を意識したと思われる写真や、
組み合わせることによって無限に増殖するユニット型照明、"Starbrick"もあったが、やはりオラファーの醍醐味は空間だなと。そして時間をかけてじっくり体感することで、よりインプレッションを受けるのも彼の作品ならでは、と感じた。


[2]「ネイチャー・センス展」吉岡徳仁 / 篠田太郎 / 栗林隆


まず写真撮影okという寛容さに感激。

吉岡徳仁1 "スノー" 過去のISSEY MIYAKEディレクションの巨大ver

吉岡徳仁2 "ウォーターフォール" でかい。

篠田太郎1 "残響" 記憶を、3方向から巨大キューブに投射。ソリッドに投射を収めているのがすごい。キューブリックへのオマージュだそう。

篠田太郎2 "忘却の模型" 血液と古代の宇宙観が循環しています。

篠田太郎3 "銀河" 乳白色の「同時」に液体に落ちる水滴、起こる波紋。

栗林隆1 "ヴァルト・アウス・ヴァルト(林による林)" ふたつ境界をまたぐことで、沸き上がる新たなスケール感。けんちゃん。

栗林隆2 "無題" 屋台であり、「不安定さ」によるコミュニケーション発生装置。アトリエ・ワンを想起した。写真は作品の頭の部分。


昨今、デザイナーでありアーティストでもあるクリエイターが世界中で増えている。ハイメ・アジョンなんかそうなんだけど。日本におけるそういったクリエイトの感性の持ち主達のアウトプットがネイチャーセンス展だったのかな、と感じている。日本にはあらゆる物質に神がやどる宇宙観が古代より存在し、「物」同士の関係性を重んじる遺伝子レベルでの感性が日本人には宿っている。この展示における、現象や物質、そして自然そのものが心を突き動かすアートであり、このような展示会が成立するのも日本であるから、だと思うし、この感覚は恐らくこれからクールジャパンの一側面として、加速度的に国外へと輸出されて行くだろうと思う。


[3]「これも自分と認めざるをえない展」佐藤雅彦:ディレクション


予備知識0の状態で行ったので、想像していたものとかなり違った。様々な技術により自身が認証され、自分自身よりもコンピューターが自分を知っている時代が訪れる。自分という人間の証明
がアウトプット/アクションか、生態的情報によるときにこれらは全て認識されてしまうから。
これは前回インタビューをさせていただいた真鍋大度さんもおっしゃっていたけど、近い将来、色々問題を解決する必要はあるが、人の体に必ずセンサーが入り込む。そして、人間は様々な恩恵を授かる。
そういったほぼ確定的な未来が、この展示会をはじめるトリガーになったのは間違いない。
そのような確定的未来が訪れた際、僕の場合「自分自身のことはやはり自分自身が一番よくわかっている」と思う。その理由はアーカイブされる情報が結局「言語」であるから。言語で表すことの出来ないものまで含めて「自分」だと思うので。すなわち、誰も、コンピューターも、僕自身も理解できないけど「心」ではわかるというか、そんなところまで含めて「自分」なのではないか。人間が「脳」だけで語れないというのは、脳みそが空っぽ(ほぼ水)で普通に生活していた人の話など、結構事例があるようなので。




そんなこんなで、芸術の秋楽しんでおります。

明日は読書の秋ということで神保町古本市に行って参ります。わくわく。

載せたいネタも結構あるので、近々また更新したいと思います。

それでは。