脇役

最後にブログを書いてからかなりの時間が経ってしまった。


この期間、なにをしていたかというと、ほとんど「なにもしていない」。

だらけている時間が長かった。考えている時間も長かった。
アートピクニックに行ったり、映画を観たり、飲みにいったり、一日中寝ていたりした。
しかし無気力。
「病は気から」ということで、体調も狂う始末。


今は非常にリラックスした状態になっている。
そのきっかけとなったのは、敬遠していた読書だった。
テキストを読むにはリラックスした状態が望ましいとされる。
リラックスした状態とは、完全にだらけている状態ではない。恐らく各人にリラックスした状態と言うものがあるだろうが、僕の場合は心身ともに醒めた状態がそれにあたる。
今回は、読書がリラックスした状態を引き起こすトリガーとなった。テキストを読み進める事によって、ものを思考する事のできない精神から放たれた。脳に血液がゆるゆると巡り始める感覚。テキストが解毒作用を持つとは思わなかった。

僕はテキストを読むのが割と遅い。文の持つ構造、リズムなどを無意識に読み取ろうとするからである。(と自分では思っている)
歯切れが悪いテキストは吸収しにくい。そういった「テキストの肉感」を読み取る脳の働きがリラックスとどのような関連があるのかは知らないけれど。




さて、表題の「脇役」
それは僕の事である。このなにもできていない期間、自身の人生について考えていた。
僕のオリジナリティ、望み、望まれていること、可能領域、性格、スキル、etc..

僕はきわめてオプティミスティックな人間なので、あまり「引け目」といったものを感じた事がない。
幼稚園児のときも、朝鮮学校に通っていた時も、東京理科大にきた時も。
自分の中に「引け目」が固定されてしまっては心のどこかにしこりとして残り、自分の限界をつくる言い訳にしてしまう。
幸い、僕は学校や会社の規模に関わらず優秀な人間はいる、ということを経験的に知る事ができた。

さらに、僕がラッキーなのは「日本で生まれて、大学に通わせてもらえた」ことである。
地理的な要因は必ずある。もしも、発展途上国の貧困街に生まれていたとしたら「大学に行く」という可能性と思考を生涯持つ事はかなわなかったはずだ。
それが幸いにも与えられた。この時点で僕には「与えられたものの義務」がある。
自分以外の誰かを少しでも幸せにする義務が。

前置きが長くなった。
僕は、自分の手と目の届く範囲の人々を幸せにしたい。
そしてそのとき、僕は「脇役」でありたいと思う。「主役」である必要はない。
色々な場所で色々な主役達を脇役として支え、少しずつ世界をインスパイアすることができれば、こんなに幸せなことはない。
つまりリスペクトする人々とコラボレートし、社会へとコミットすることに僕は魅力と適性を感じている。

僕が主役であるのは、自分の人生においてのみである。50年後に世界に自分の名前を刻み付けようなどとは微塵も思わない。




本日23日は弟と軽くデート。最近はよく彼と話し込んでいる。
その後、池谷(いけやつ)とお茶。卒業アルバムをつくる話で盛り上がる。
このままいくと尋常じゃないクオリティに仕上がり(仕上がってしまい)そうだ。わくわく。



最後に、先日気狂いピエロを日比谷TOHOシネマシャンテで鑑賞したので軽く感想。
作品鑑賞は2度目、銀幕での鑑賞ははじめて。気狂いピエロほど色鮮やかな映画もなかなか無いんじゃないか。
スクリーンの大きさも相まって「色に酔う」という現象が僕の胃で起きた。
僕はシネフィルでもなんでもないので、映画のコンテクストに詳しくはない。
が、当時ゴダールが、新たなコンテクストを表出しようとし、実験していた事はこの映画でもよくわかる。
殺人とコメディの同居、時間軸の交差、観客へのささやき。何度でも観たい。
アンナ・カリーナのマリンスタイルと最期に撃たれた瞬間は本当にきれい。
ベルモンドはキラキラしている。
ラストの爆煙、海、光、白へのカメラパンは脳裏に焼き付いて離れない。




追記「ノルウェイの森」観に行かなきゃ。
村上隆さんがtwitterで大絶賛していて(http://togetter.com/li/81298)、これは行かねば、とミーハー根性。



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