忘年会/ノルウェイの森


師走も末。
ゆるりとした生活を送っている。インプット中心の生活。
その一方で、目の回るような忙しさの中、本日あるいは明日が仕事納めの方々も多いだろうと思う。お疲れさまでした。




25日から26日にかけてデート。とても楽しく過ごす事ができた。感謝。




※左が僕で右が彼女、だと思う。



夕食で食べた、新宿のTRATTORIA Briccola (http://www.briccola.net/)というお店の料理が本当にたまげるほど美味かった。






昨日は2009年に展示会を行った際の、プロモーションメンバーで久方ぶりに集まり忘年会。at 目黒。
色々と話せてよかった。不毛な話と、真面目な話のバランス感が絶妙。



※左:しょうご 中:たっつん 右:たこちゃん 撮影:僕





2次会中目黒で明け方まで飲み、たっつん家に宿泊(ありがとう)。
本日は『ノルウェイの森』を鑑賞。


(以下『ノルウェイの森』私感)
この作品、個人的にものすごくヒットだったのだが、鑑賞の前提としてまず、
/原作を読んでいない
/トランアンユン監督の作品を観たことが無い
/映画というメディアにリアリティを求めていない
の3つの「ない」状態が僕の中に「あった」ことがよかったと思う。


前々回のブログにも綴ったことだが、僕はシネフィルでもなんでもないので映画のコンテクストを丸々理解できているつもりは全く無い。ただ、理解しようとする欲は常にある。
この映画は様々な断片(カメラ回し、役者の動き、関係線、植物、などなど…)に様々な心情や暗喩が秘められており、それらが重なり合って2時間超のフィルムになっている。
ここで驚くべきは、その断片ひとつひとつの細やかさ。まさに「God in detail」(神は細部に宿る)。トラン・アン・ユン監督の感性、李屏賓(リー・ピンビン)のカメラワーク、ジョニー・グリーンウッドの音楽、松山ケンイチをはじめとした俳優らのアンリアルな台詞回し。もはやファンタジー


映画とは、カメラで現実を切り取ったものではない。ハリウッド映画に見られるスペクタクルは詳細まで「つくり込まれた」エンターテインメントであるし、ジャン・リュック・ゴダールは「映画の構造」に「観客」と「超現実」を組み込み、既存の映画の脱構築を計ったように思う。ミケランジェロ・アントニオーニは『欲望 Blow-Up』において、よりマクロに「映画という物語の神話」(事件はひとつの物語の中で解決されねばならない)を解体せんとした。
トラン・アン・ユンは気が触れるほどの「つくり込み」によって、ハリウッドのような究極のエンターテインメントではなく、ゴダール的に映画における構造の新たな地平を目指したのではなかろうか(僕の映画に関する語彙不足で成し遂げたかどうかはわからないが)。
与条件は原作『ノルウェイの森』と『映画芸術の100年の歴史』。


上記の、映画に対する操作箇所の大小関係式を記すと、
トラン・アン・ユン ≦ ハリウッドのエンタメ < ゴダール < アントニオーニ
このような感じか。



ノルウェイの森』すごく気になったシーン。
/ブリーフ一丁の松山ケンイチが、手前側の鏡面仕上げのインテリアに映り込みながら横滑りする映像。
ゴダールの『勝手にしやがれ』における街灯が一斉に点灯するシーン(僕が大好きなシーン)ばりにゾクっとした。
松山ケンイチ菊地凛子が噛み合ない話をしながら散歩をしているが、猛スピード、木の前で立ち止まり「私はどこにいるの」(だったっけ?)。
→鳥肌たつほど浮世離れ。ラストの松山ケンイチに繋がる。
/雪山でのオーラルセックスとカメラの引き。
→この表現すごい。美しいのがすごい。




自分の中でもあまりまとまっていないので、かなりの雑文に仕上がってしまった。。
映画ももっと観て勉強しなくては。。という気にさせていただいた映画。
ノルウェイの森』おすすめです。一人で観るのが良いかな、と思います。